曖昧という美しさ

先日、横須賀市の審判講習会がありまして、初めて受講をしました。

 

剣道の審判は、他のどのスポーツよりも難しいと思います。

サッカーやバスケットボールのように、ここに入れれば点が入る、というものもありません。

フェンシングのように剣にセンサーがついているわけでもありません。

 

「気剣体の一致」と言いますが、打突がしっかりしていても、気合が十分じゃなかったとか、体捌き(残心)が適切でなかったという理由で、一本にならないこともあります。

 

絶対に誰がみても一本、というものって存在しないんですよね。

 

こうした曖昧な要素をあえて残しているのは日本らしくて、剣道が単にスポーツという枠にはまらない、文化芸術の領域である証であり、魅力だと私は思っています。

 

日本人は曖昧さをとても大事にしているように思います。
「今日はちょっと・・・」とか「結構です」とか。
「どっち?」と聞きたくなることもあると思うけれど、相手の気持ちを思い遣るからこそ、あえてはっきり言わない。

 

日本建築で言えば、襖や障子など、鍵のかかったドアのように明確に区別をしないといったこともあります。
不用心だし、プライバシーを大事にする観点で言えば、鍵のかかったドアの方が良いでしょう。しかし、そうしないのは、日本人が人と自然との距離感を大切にしてきたからだと思います。

 

効率性と個が重視される現代において、こうした曖昧さは無駄なものであり、捨てられるべきと思われがちですが、果たしてそうでしょうか。

曖昧さの中には、「優しさ」や「思いやり」が往々にして隠れているように思います。

 

剣道はこれからもそのような日本の美の象徴であってほしいと思っています。

 

皆さんはどう思いますか。

 

※政治においても曖昧さは必要な要素は多分にありますが、情報の透明性や、EBPM、不祥事など、なんでも曖昧で良いという話ではもちろんありません。

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